2014年12月26日金曜日

【書籍紹介】『正しく悩む技術』杉田隆史著


杉田氏のブログは時々読んでいます。

他の人と視点が違っていいな~と思っていたのですが、彼の著書をアマゾンでチェックするとKindle版が何と400円!!

しかし私は、

・ブログと同じことが書いてあるのかもしれないな~。
・だとしたら400円がもったいないな〜。
・でも書籍版1400円との差も大きいし、お買い得感があるな〜。

etc...

と変なところで悩んでおりました。(^_^;)



カフェオレ1杯分で悩んでいる自分に( ゚д゚)ハッ! と気付き、



即、購入クリックしました。






自分にもいろんな心の癖があるなぁ、と実感すること多々。


ですがたとえ話や挿絵が楽しかったので、終始笑顔で読むことができました。



文体や雰囲気は彼のブログでご確認ください。


一冊通して読むと、ブログとの重複感はあるものの、ブログ以上に深く理解でき、大きな満足感がありました。



しかも、読み終えたあとは不思議と前向きになれる本だと思います。


心が軽くなるこの本に出会えたことに感謝いたします。

(^_^)






2014年12月15日月曜日

「くれない族」とお別れする。


普通に主婦業をしていても、自分の心の癖に気づくことが多々あります。


例えば日々の料理。

心を込めて丁寧に作っている場合を想定してください。

そんなこと滅多にないとか、忙しくて毎回ただ何となく作っているだけとか、いろいろな雑念が出てきてもそれは無視。気持ちよく作っている場合を思い浮かべてください。


作っている時は
「美味しいと言ってくれるかな?」
「喜んでもらいたいな!」
「久しぶりにあのお皿を使おう!」
など楽しいことばかり浮かんでくると思います。


ただ純粋に
「相手に喜んでもらいたい」
と思っているはずです。


食卓での楽しい会話を想像しながら作っていることと思います。



いざ食卓につき、家族やパートナーを目の前にすると、期待してしまいませんか?



「美味しいよ!」


と言ってくれることを。





私はしょっちゅうそう思っていました。


「いつ言ってくれるかな?」
「時間かけたんだし、美味しいはずだよね」
「でも普通に食べてるなぁ…」
「あれ、もうそろそろ終わっちゃう…」


で、

「ごちそうさま。」




そして離席。






こういう場合、私の心は穏やかではありません。

「せっかく作ったのに!」
「一生懸命作ったのに!」
「今日のは特別なのに!」
「時間かけて作ったのに!!」
ヾ(*`Д´*)ノ"ヾ(*`Д´*)ノ"



こういうことを何度も何度も経験し、ようやくわかりました。


私は「美味しいよ」と言ってもらうために料理をしていたんだなと。

私は料理をしていることを褒めてもらうために特別な思いを込めていたんだなと。



料理をしている途中ではそんなことは微塵にも感じていなかったし、実際に心をこめて作っていたし、、、


でも結果として不機嫌になった。(^_^;)



美味しいと言ってもらうことや日々の料理を褒めてもらうことは、気持ちが自分中心になっています。


そうではなく、純粋に相手のことだけを思う、


「自分から相手に何かを与える」


という軸になっていなかったのです。

















右:
大きく見てもらいたい「自分」
他人から「〜してもらいたい」と思っている自分

左:
もしかしたら十分な力はないかもしれない「自分」
でも外部には太くたくさん関わっていたい「自分」


現在は 左の自分を目指しています。他人のために何かできることがあるというだけでも感謝しています。(^_^)




最後にノートルダム清心学園理事長の有名なお言葉を載せておきます。
ゆっくりお読みいただけたらと思います。


ありがとうございます。
感謝しています。




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【 置かれた場所で咲きなさい 】

初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、
それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけはなれていて、
私はいつの間にか“くれない族”になっていました。
「あいさつしてくれない」
こんなに苦労しているのに
「ねぎらってくれない」
「わかってくれない」
自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、
一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。

その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。

岡山という土地に置かれ、学長という風当たりの強い立場に置かれ、
四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。

私は変わりました。
そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり
不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。
人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり
自分の花を咲かせよう、と決心することができました。

それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。

いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。

「咲くということは、仕方ないと諦めることではありません。
それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、
神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」

私は、かくて“くれない族”の自分と訣別(けつべつ)しました。
私から先に学生にあいさつし、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。

そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり優しくなってくれました。

「置かれたところで咲く」

この生き方は、私だけでなく学生、卒業生たちにも波及しました。
 
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、
次から次に出てきます。
そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。

どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、
そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、
根を張るのです。

次に咲く花がより大きく、美しいものとなるために。

出典:置かれた場所で咲きなさい
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